ティディベア
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それは人々が仕事を終えて帰路に着き、それぞれの家で食事や風呂を楽しむような時間のことだった。珍しく二週間ほど昼間の仕事を続けている壊し屋が、十八時きっかりに流華堂を訪れた。二十二時から営業を始める流華堂には、当然まだ灯が点っていなかった。看板も店の中にしまわれている。
灰色のロングコートにノートパソコンの入った手持ちのバッグ。前髪を後ろに撫で付け、眼鏡をかけている壊し屋は、一見エリート医師か学者のように見えた。それかやり手の――特に女性に人気の――営業マンのようだった。しかし壊し屋はとてもまともな職に就いている人間とは思えぬ鋭い目で店を一瞥し、そして狭い路地に入って流華堂の裏口へ回った。彼はそこで眼鏡を外し、綺麗に撫で付けられた前髪に指を入れて掻き回した。壊し屋はコートのポケットから昔ながらの金属製のキーを取り出すと、裏口を空けた。それはとても自然で、まるで自分の家に帰ってきたかのように見えた。
壊し屋は裏口から中に入ると靴を脱ぎ、今度は内側から裏口にロックをかけた。そして暗い一階を難なく抜けて、二階へ階段を上っていく。途中カウンター越しに店内を覗いたが、そこはまだ暗く、人の気配は一切なかった。軋む木製の階段を慎重に上り、壊し屋は修理屋のプライベートルームへと辿り着いた。部屋は暗く、昼と夜の逆転している修理屋はベッドで眠っている様子だった。壊し屋はカウンターを挟んでベッドと反対側にあるソファに辿り着くと、着ていたロングコートを脱いだ。袖から銀色のデリンジャーが転がり落ちる。その小型の銃は彼が扱うには小さすぎて、普段なら持ち歩かないものだったが、昼間の仕事にいつものリボルバーやオートマチックを持ち歩くわけにはいかない。今回の仕事は珍しく穏やかな依頼なのだ。
壊し屋はソファに落ちたデリンジャーを拾った。多少改造してあるが、特に珍しくもない代物だ。彼はそれを無造作にロングコートのポケットに突っ込んだ。そしてコートと同じグレーのスーツを脱ぎ捨てる。紺色のネクタイを解くと、それもソファに放った。そしてもう一度髪に指を入れて掻き回す。どうにも整髪剤が鬱陶しくてたまらなかった。すぐにシャワーを浴びてしまいたかったけれど、眠りの浅い修理屋を起こしてしまうことになりそうだった。
壊し屋はカウンターを回りこんで、修理屋の眠っているベッドへ近づいた。すると、修理屋はベッドから身を起こしていた。白い着物一枚着て、桃色の細い帯で腰を留めている。幽霊のようにぼんやりと闇に浮かぶ修理屋の姿を、壊し屋は声もかけずにしばらく見守っていた。店が開く前に、修理屋の部屋に忍び込んだことは幾度かあるし、修理屋が眠っているところも何度も目にしている。しかし、修理屋が二十時前に起きたところは初めて見た。騒がしくしたつもりはなかったけれど、壊し屋が起こしてしまったのだろうか。
不意に、壊し屋は修理屋の頬を伝うものに気付いた。寝乱れて着物の襟から覗く首から鎖骨へ向けてのラインにうっとりしながらも、壊し屋は修理屋に近づいてベッドの縁に座った。ベッドは大きく軋んで、壊し屋の耳に修理屋の呆然とした呟き声が聞こえた。
「tear……」
着物姿の修理屋が、英語でそう言った。修理屋は焦点の定まらない目をしていて、流れる涙に気付いていてもそれを拭うために腕を動かそうとはしなかった。壊し屋は動かない修理屋の代わりに、手を伸ばして修理屋の頬を拭ってやった。
「そうだな。どうして泣いている? 流華」
名前で呼びかけると、修理屋はゆっくりと首を動かしてようやく壊し屋に焦点を合わせた。壊し屋がここにいることには、何の驚きも示さない。いつもなら軽く皮肉を言ったりもするのだが、それもなかった。
「……ティアという名前のティディベアを持っていました」
ただそう言って、流華は再び壊し屋から視線を外した。壊し屋は目の前で揺れた流華の髪に手を移して、それを一房掴むと口付けた。
「そうか。そいつはどこに行ったんだ?」
話の流れは分からないが、きっと流華は夢でも見ていたのだろう。そのティディベアの夢を。しかし壊し屋はそのティディベアをこの家で見たことがなかったので、流華にそう質問した。流華は壊し屋が髪に触れるのを嫌がりもせず、ただ壊し屋の質問に答えて言った。
「分かりません。いつの間にかいなくなって……。寝るときはいつも一緒だったのに……。だから、ティアがいなくなってからです。昼間起きられなくなったのは。たまに起きてしまうと、こうして涙が止まらない」
壊し屋が流華の髪から手を離す。そして流華の頬を見ると、確かに拭ったはずの涙が、また流華の頬を濡らしていた。しかしその割りに、流華は決して悲しそうには見えなかった。むしろ動かない表情は人形のようで、たまたま外気にさらされて冷えていた人形の頬が、暖められて結露したように見えた。
「……壊れているんだな」
壊し屋はどこか残念そうにそう言った。
「そうですね……」
それに答えた流華はやはり、表情を少しも変えなかった。その間にも涙は流れ続けている。何故流華が急にクマのことを思い出したのか壊し屋は不審に思ったが、それよりも流華が泣き続けている様子は、壊し屋にとってあまり歓迎できることではなかった。
「代わりのクマを買ってやろうか?」
不本意ながらも壊し屋はそう提案した。壊し屋の本質はそのものずばり壊すことなので、誰かに何かを与えるよりは、誰かから何かを奪うことのほうがより手軽で満足できる作業だった。しかし、こと流華に関してだけは彼もその本質を抑え込まなくてはならない。
流華はそうして壊し屋が努力した結果を、首を振って拒んだ。どうやらティアと名づけたそのティディベアでなくてはならないらしい。しかし流華が昔無くしたクマのぬいぐるみを、ここに復活させる魔法なんて壊し屋は知らなかった。仕方なく、壊し屋は流れ続ける流華の涙を拭いながら本人に尋ねた。
「じゃあ、どうすればこの涙が止まる?」
壊し屋が拭うたびに、流華の白い頬が桃色に染まっていく。それが桃色であるうちはかまわないが、やがて赤く痛々しい色に染まるだろう。その前に、何とかして流華の涙を止めたかった。流華はぼんやりとしたまま――普段ぼんやりしていないとは口が裂けても言えないが――壊し屋の顔を見上げた。桜色の唇が上を向いて小さく開かれる様は、妙に扇情的だ。
「……今日は、これからお仕事ですか?」
子どもが父親に尋ねる、それにしては色気のあり過ぎる光景だと思いながら、壊し屋は首を横に振った。
「じゃあ、一緒に寝てください」
涙を流したまま、流華はそう壊し屋に頼んだ。壊し屋は小さく微笑んで流華に尋ねる。
「ここで?」
流華はこくりと頷いた。一緒に寝るという言葉に、ひとつの意味しかないと考えている様子の流華に、壊し屋はしばらく忠告すべきかどうか迷ったが、言っても無駄だと思って流華の頭を撫でると立ち上がった。
「……分かった。シャワー、借りるぞ」
壊し屋は流華を置いてシャワールームへ向かった。気分の悪かった整髪剤を洗い流して、壊し屋はすでにこの部屋に常備されるようになった彼用の白いバスローブを羽織った。濡れた髪を拭きながら流華の元に戻ると、流華はまだベッドに上半身を起こして、本当に壊れた人形のように涙を流し続けていた。
「まだ泣いているな」
壊し屋はそう言ってベッドに潜り込んだ。シングルサイズのベッドは二人入ると一層狭く感じられた。しかし横に寝転がった壊し屋に、流華がぺったりと身を寄せると、何とか二人でも眠れそうだった。お互いの寝相が悪くなければベッドから落ちることもないだろう。流華は壊し屋の腕を枕にして、壊し屋の懐に潜り込むように身を縮めた。壊し屋も流華を引き寄せて、そして苦笑した。
「……今日は俺がクマの代わりだな」
壊し屋が自嘲気味に囁くと、流華は顔を上げて言った。
「不快でしたら言って下さい」
壊し屋はさらに苦笑して答えた。
「不快どころか、いなくなったクマに感謝したいくらいだ」
流華はどうして壊し屋がそんな気持ちになるのか分からないといった様子で首を傾げた。しかし壊し屋に体を引き寄せられると、また大人しく壊し屋の懐で身を縮めた。
「……涙は止まったか?」
しばらくしてからそう尋ねると、流華は壊し屋の懐で首肯した。
「はい」
壊し屋はその答えに満足し、布団を引き上げると流華の背を二回叩いた。
「じゃあ、後は寝ろ。目を覚ますまで、ここにいてやる」
流華は小さく頷いて、そして数十分経つと寝息を立て始めた。壊し屋の体温に安心したようだった。壊し屋は自分の体にぴったりと身を寄せる流華の、小さな頭に口付けながら、唇の端を引き上げてまた苦笑した。
「随分と信用されたものだな……」
その信用を裏切るつもりは毛頭ないが、壊し屋の本質が疼くのも確かだ。壊してやりたい。その衝動はいつも壊し屋の中で燻っている。そしてそれは何も、壊し屋の中だけに見られる特有の感情ではなかった。特別な相手を見つけた人間なら誰でも持ちうる感情。壊し屋は自分の中に人間だと言える感情があるのを、とても愉快に思っていた。